時代の波乗り日記

いくつになってもふらふらっと生きている男が気になったニュースや日々抱いているギモンにガツンと言うつぶやき型問題提起ブログです。

年老い論

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今日、12月9日に24回目の誕生日を迎えた自分が年を重ねることについてどういう心境でいるのかを書き残しておきます。

昨日までの段階では、「あーもう24かー。思ってたよりも成長してへんなー。人生ってこんなもんか。」何て思ってた。なんだかんだで特別な思い入れのある人、であり、母親から性を授かったことに改めて感謝する大切な日である。

さっきiPhoneを確認したら、Facebookメッセンジャーで父親からメッセージが来ていた。後で読もうと、まだ内容は確認してはいないものの、最初の2行分が通知段階でネタバレ的に見えてしまっていたのだが、それは誕生日のお祝いコメントと、もうそんな歳になるのかという感嘆の言葉に加え、来年にはなるが25歳は父親が母親と結婚した年であったということが綴られている。

気付けばもう

そっか気づけばもうそんな年なのか。24年生きた本人はなんか簡単に「24かー」ぐらいの感じでとらえてたけど、産んだ本人からすれば、「あんなに小さかったのに、大きくなったなー」と当たり前だが、客観的な感じ方である。

確かに、「あの人に出会った初めてのホームステイ体験からもう10年になるのか」とか「もうあの番組が10年前なのか」って感じることが増えた。そう感じるようになったのも、10年前の時点でもう物心がついて自分で物事を考えて行動し、たくさんの記憶がすでにあるからだ。14歳の頃の10年前となれば4歳、その頃の記憶なんてほとんどないし大きな変化もなかったことだろう。辿れる記憶が増えたからこそ、「あー、もう自分はこんな歳なのか」とう感情が生まれるのだろう。

想像できない未来

いつも思うことだが、10年先のことは全く想像できない。5年後、5ヶ月先ですら自分がどう生きているのかわからない。それは14歳の頃から変わってない。その当時だって24歳の自分のことなんてどうなってるのか全く見えていなかった。ただ「スーツを着て、バリバリ働いてんのかなー。」とか「結婚してたらいいなー」ぐらいの感じ。別にとんだ災難があったわけでもないが、いま生きているのも奇跡に思えてきた。だって14歳から24歳までの途中の出来事をすっぽかして考えると、想像できてなかった未来を現在に生きてるのだから。

人生計画は必要か

19、20歳の頃、孫社長に憧れて「人生60年計画」をたててみた。「20代には大学卒業して独立して起業する」などなど。まだどの計画に対しても絶望的になったわけではないが、その表が日に日にただの希望的観測に見えてきたのだ。夏休みの宿題を始める前に書かされた「この日までに宿題を終わらすには、この日にこのドリル◯ページやって、次の日には違うドリルを◯ページやれば、新学期始まる前に焦ることはない!」みたいな計画によく似ている。そんな計画通りにいった試しがない。夏休みの終わりに焦ってるのが風物詩。計画が1日でも後ろ倒しになると「やっちゃったー」とズルズルと遅れに遅れていくことになる。そして、早い段階で計画表は全く意味をなさないものになった。希望的観測が叶わなかった度に落ち込むことになった。
そんな人間ならもう、人生計画なんてもっともっと大雑把なものでいいんじゃないか。ふっきれた言い方をすれば、自分に期待しすぎて落ち込むなら、いっそ期待しないで生きる方人生の方が気楽で心から楽しめるんじゃないかと思う。

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